明日を見通せない時代だから・・・

鉄道・スポーツ観戦・読書・音楽鑑賞をこよなく愛する、永遠の17歳

有限の時間をいかに送るか

 昨夜、ある知人(便宜的に「Xさん」と呼称する)が亡くなった。今日未明、友人から連絡を頂き、事実を知らされた。まだ40代前半、中学生のお子さんを残して。病死だそうだ。

 日本では、1日に約3000人が亡くなる。各故人の死亡原因・周囲への影響はそれぞれ。日々、約3000のストーリーが展開される。Xさんにも、Xさんのストーリーがあるはずだ。

 

 他人の死に直面したとき、特にそれが平均寿命を大幅に下回るとき、必ずある気持ちがよぎる。常に全力で生きなければならない、と。

 人間は必ず死を迎える。人生とは、有限の時間における、人間活動の営みだ。どんな人生を送っても、死に直面する。今この瞬間、死へのタイムリミットに向けて、有限の時間は進行する。どんな一瞬でも無駄にせず、有限の時間内に、人生を積み上げていくしかない。

 

 ある特定の人間が死亡しても、世界は変わりなく回る。特定の人間が占めたポジションに、他の誰かが入れ替わるか、そのポジション自体が消滅するか。特定の人間が死亡しても、社会全体が止まることは絶対にない。

 Xさんの例でいえば、会社における業務は他の社員に引き継がれる。中学生のお子さんにとっての「父親」というポジションは誰も代われない。父親のように慕える人や父親のように振る舞う人が現れても、「父親」というポジションを誰も引き継げない。ポジション自体が消滅する。

 

 特定の人間の死は社会全体の前で非常に無力だ。だからこそ、社会に何か足跡を残したい。

 自分の死後においても、自分の足跡がほんの少しでも誰かに影響を与えることができれば、社会に何かの足跡を残せたといえるのではないか。できれば、自分の足跡が与えた影響を連鎖的に残したい。永遠にとまでは言わないが、数十年単位・100年単位で残せれば、どんなに素晴らしいことだろうか。

 

 Xさんより随分と年少な僕には、平均寿命まで数十年以上残されている。しかし、人間の死はいつ訪れるか不明だ。極論をいえば、1分後に死亡するかもしれない。自らの足跡を残せるよう、今この瞬間、懸命に人生を積み上げなければならない。

 約12年前、ある出来事をきっかけに、このことを強く意識するようになった。だが、ここまでの人生で、僕は懸命に人生を積み上げた、とはお世辞にもいえない。非常に恥ずべきことだ。

 しかし、恥じているだけでは、何も生み出さない。今この瞬間、目の前の一瞬、懸命に人生を積み上げなければならない。今回の一件、改めてこのことを再認識させられた。

 

 最後に、Xさんの死に、哀悼の意を表したい。ご家族にも、ご冥福をお祈り申し上げます。

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